よくあるご質問

つきじ獅子祭

江戸初期・萬治二年のご創建の折に、波風をピタリとおさめた『波除』のご神徳のあらたかさに驚き奉納された、雲を従える「龍」、風を従える「虎」、一声で万物を威伏させる「獅子」の巨大な頭を担いで回ったのが「つきじ獅子祭」の始まりです。
 江戸時代中期に書かれた「東都歳時記」にも、獅子頭を担ぎ町々を神輿のように練り歩くこの祭礼の記述も見られ、すでに江戸市中には広く知られた祭であったことが伺われます。大正時代、現在の勝鬨橋はまだなく(昭和十五年竣工)大川べりに町家がならんでいた頃、ちょうど築地六丁目の交差点から大川べりの突き当りまで、三十対ほどの夫婦の獅子頭が神輿のように台棒の上に組まれうまの上に据えられ長いあおりを伸ばして整列しています。
 時刻が来ると獅子は一対づつ揃いの半纏を着用した担ぎ手により静々と担ぎ出され、あおりは手古舞姿の少女たちによりピンと張り伸ばされます。鳶頭連中の木遣りの先導で神社前に進みお祓いを受け、右折して小田原橋に向くや、長いあおりを瞬時に巻き込み頭の中に隠し入れるやいなや、いっせいに荒々しくもみ担ぎ、今度は手古舞の先導で夫々の頭がつき町々へ練りだしました。行列の最後に白木の神輿が白丁によって担がれ、その後ろに騎馬の宮司ほか神職や旗が続きました。これらの獅子頭は現在神社社殿に飾られるの金梨地の一対を残し、ことごとく関東大震災で焼失いたしました。 その後、昭和二年に現在の宮神輿が完成し、長らく獅子祭の名前が残る神輿の祭りが続きました。
 飾り神輿の至宝・重文級との評価を受ける四尺一寸の宮神輿を担ぐ祭礼もまた高い評価を受け、東京歳時記の夏の写真として表紙を飾るようになっていました。
 昭和五十八年に新聞に石川県鶴来町の獅子頭彫刻師・知田清雲氏が大きな獅子頭を彫ったという記事が載り、当時の宮司が鶴来町にある知田氏の工房にお伺いして獅子頭の復興をご相談し、翌五十九年からは二人三脚で、更には伝統の技を今に伝える多くの加賀の職人、一貫して支え続けて下さった材木店や関係の方々の力を得て、平成二年に雄の「天井大獅子」が黒檜一木造りで高さ2、4メートル・幅3,3メートル・重さ1トンの白木の巨大な姿で再興されました。この雄獅子は、木の落ち着きを待って、平成九年に、新調された白木の担ぎ棒に組まれ延べ四千人の人々により築地の町を担がれました。
 そして平成十四年、雌の大獅子「お歯黒獅子」が木彫で高さ2、15メートル・幅2,5メートル・重さ700キロ、担ぎ棒が組み入れられる台座に固定され、朱塗りの姿で再興されました。雌を現す頭の宝珠の中には、ご創建時に同じく奉られた弁財天のご神像を新調しお納めし、弁財天・お歯黒獅子として手水舎も組み込んだ社殿に納められ、この雌獅子はこの年から担がれ、女性だけの担ぎ手の区間も設けられました。
 平成24年には大獅子の復興作業最後の締めくくりとして、江戸時代以来焼失していた龍虎の頭も復興し、この年には神社創建以来初となる神社千貫宮神輿・雌雄一対の大獅子のすべて担いでの御巡行が執り行われました。
 つきじ獅子祭は今後も江戸時代以来の獅子を担ぐ伝統に、昭和に新たにできた千貫宮神輿、平成に再興した雄雌の大獅子を加え、伝統と新しさを兼ね備えた江戸随一の祭りとして連綿と執り行ってまいります。